明治30(1897)年頃、日本には公立ハンセン病療養所がなく、熊本市にある本妙寺の境内には、皮膚病を癒す力があるという噂をたよりに全国から人々が集まり、悲惨な状況にありました。この目を覆う程のありさまに心を痛めたパリ・ミッション会の宣教師ジャン・マリー・コール師の招聘により、マリアの宣教者フランシスコ修道会(FMM)の創立者 マリ・ド・ラ・パシオンは、会員の中から5名の修道女をローマより派遣しました。
まだキリストを知らない人々に、キリストの福音(よろこびの知らせ)を告げるために『世界中のどこへでも誰のところにでも行く』ことを使命とするFMMの5名のシスターたちが、明治31(1898)年10月19日に熊本に着きコール師の活動を引き継いで救ハンセン病事業に当たったことが、「社会福祉法人聖母会」の日本における事業開始の発端となりました。
2年後の明治33(1900)年には、これらの患者さんを収容する施設(琵琶崎待労院)が熊本市島崎6丁目に建てられました。その後、行路病死亡者の遺児や路傍に捨てられた老女を収容する施設、貧困者のための施療院などを求められるままに次々と設立することになりました。またこれらの問題は九州だけにとどまらず、北海道、関東、関西などの各地からも要請があったため、相次いで施設が誕生する結果となりました。
当時は国家の援助もなく自給自足の生活で、貧困やあらゆる困難との戦いの中で、≪キリストの愛と真理をもって人々に奉仕する≫(愛によって真理へ)という精神に基づいて事業は続けられました。昭和4年、修道会のこれらの社会事業を包括して、内務大臣より「社団法人マリア奉仕会」として許可されることになりました。
戦時中は困難労苦にもかかわらず、多くの善意と励ましにより継続することができ、昭和19年3月には「社団法人大和奉仕会」と名称を変更。昭和27年3月には社会福祉法の施行を受け、同年5月24日「社会福祉法人聖母会」として認可されるに至り、その後も人々の必要に応じて事業は広がっていきました。
現在聖母会は、北は北海道から南は奄美大島まで児童養護施設、医療施設、老人福祉施設、保育園等の事業を持つカトリックの社会福祉法人として、人々のあいだに、人々の中によろこびをもたらすために活動を続けています。